再び親鸞、歎異抄です。哲学者西田幾太郎氏をはじめ、多くの近代知識人を魅了してきました。他にも司馬遼太郎氏、吉本隆明氏、遠藤周作氏、梅原猛氏等です。第5条の文です。

“親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことはかつて一度もありません”私たち日本人は仏事を営むのは亡くなった人の追善供養のためと思っていると思います。しかし、親鸞はそのために念仏したことはないと言います。その理由の一つは、全ての生命は繋がっているというものです。奈良時代の僧、行基の歌に「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」これこそ仏教の生命感です。鳥も虫も動物も全ては繋がっているから、自分の父や母にだけ向けた念仏はしないということなのです。

別の条で親鸞は“万のこと、皆もって、空言、戯言、誠あることなし”すなわち、世の中の一切は“空言”“戯言”“虚仮”であり、何一つ誠はないと言われています。

ある方がネットで、仏教の講座に来た大学生の青年が語ってくれた話を紹介されています。“彼女いない歴=自分の年齢”だった当時の彼が、人生初デートで彼女とご飯を食べた時、美味しそうに笑顔で食べる彼女に“この笑顔をずっと守っていきたい”と幸せな気分になったそうです。同時に今まで自分のことしか考えてこなかった冷たい自分にも他人を守りたいという、こんなに温かい心もあったんだと嬉しくなり、そういう心を教えてくれた彼女に感謝いっぱいになったそうです。

それからいろいろあって、次第に上手くいかなくなり、別れたそうです。しばらくしてその彼女は、別の男性と付き合い始め、二人が仲良くしている場面が目に入ると腹が立ったと言っていました。“何を楽しそうにしてんだ、なんでそんな笑顔になれるんだ”と彼女の笑顔に無性に腹が立ったそうです。

彼女の笑顔を守りたいという純粋な温かい心があるなら、誰と付き合っても彼女が笑顔なら微笑んでおられるはず。あの時思ったのは彼女の幸せを守りたいという温かい心だったのか、そうではなくて結局自分とデートしている状態の彼女の笑顔を守りたいということではなかったか?そんな心に気づいたそうです。

だから誠の純な愛というのは見当たらないと言ってもいい、誠あることなしです。その極めつきは?好きな男の腕の中でも違う男の夢をみる、ジュディ・オングさんの「魅せられて」からです.