大学の医局に入局すると誰しもが夢に見ること、それは頂点である教授になることです。まず、外科に入局して2日目の朝、教授の病棟回診、多勢の医局員を従えてなかなか格好のいいものでした。
さて、教授になると(今の時代、なかなか厳しくてそうはいきませんが)、この世の春を謳歌したものでした。医局員の結婚の仲人、医学博士取得の謝礼、そして患者さんからの手術の謝礼等、いわゆるno taxの収入が多かったのです。
私が神戸大学の第2外科に入局したのが昭和54年、その後2回の教授選がありました。医学部の教授選の醜さについては、私がまだ中学生の頃、当然まだ自分の進路を全く決めていない頃の山崎豊子さんの力作「白い巨塔」の中に見事に描写されています。白い巨塔の象徴的なタイトルの意味は“外見は学究的で進歩的に見えながら、その白い強固な壁の内側は「封建的な人間関係」と”特殊な組織で築かれ、一人が動いても、微動だにしない非情な世界“とあります。
大阪大学がモデルとなっている浪速大学医学部第一外科の助教授、財前五郎は東教授の退官を控え、次期教授への野心を燃やしていた。しかし、財前を嫌う東教授は他大学からの候補を立てようと画策し、病院内には様々な思惑が入り乱れていく。そして手段を選ばない裏工作のおかげで財前は見事教授の座を手中に収めたのです。(神戸大学の教授選でも教授になるために山を2つも3つも売ったという話はよく聞くところでした。)
栄枯盛衰は世の常で、もはや敵なしかと思われた財前でしたが、医療ミスで裁判となります。財前が手術を担当した患者が亡くなります。手術の際、財前は“癌が転移しているかもしれない”という周囲の声に耳を貸さず、検査を行いませんでした。癌は転移していて、患者の容体が急変した時、財前は国際外科学会に出席するためポーランドにいて不在でした(よく言われることに、教授になるためには手術の上手い下手よりも論文の数、学会発表の数が大事だというのがあります)。財前は訴えられましたが、証拠を隠滅し病院関係者の口止めを行うことで身を守り、第1審では財前が勝利、続く後審では財前が負けたのです。それは口止めしていたスタッフの寝返りでした。わが身を省みず、“明日の医療のために”と財前の不正を指摘する人々の勇気と正義によって判決は逆転したのです。
さて、私ごとになります。心臓外科の術者になるのに過酷な年月を費やしました。直径2~3㎜の冠動脈を正確に吻合するために、模型の血管を用い、暇があれば練習していました。そして自分が手術させて頂いた方が劇的によくなられて、退院される時の喜びは何ごとにも代えがたいものでした。だから自分は少なくとも定年までは心臓外科医でいるのだろうなと思っていました。でも、結末はあっけなかった。私を直接指導して下さった助教授が他病院からの候補者に教授選で負け、その新教授は私より1年先輩、だから心臓外科で私の居所はないと思い、メスを置くことにしたのです。私の最後の手術の写真です。
寂しいというより、何かほっとした感じを覚えたのです。
そして親切に私を指導して下さった先生とも教授選後は接点がなくなり、会話も途絶えてしまいました。白い巨塔とはそんなものなんですよね。
As soon as the new professor has been chosen in ugly election,my fate has been forcibly changed all of sudden.