白い巨塔・華麗なる一族等長編小説で有名な山崎豊子さん、生涯最後の著作に「運命の人」があります。

沖縄返還時の日米密約を題材に、国家権力とジャーナリズムの戦いを描いたものなのです。史実に基づいたもので、特ダネ記者は沖縄返還の取材中に日米間で進められている密約の存在に気付く。その機密文書漏洩に関し、国から追及をうけるという物語です。

日米間で成立した密約とは?日本周辺で極めて重大な緊急事態が生じた際に、事前協議のみで米軍が沖縄へ核兵器を持ち込める、および軍用地の原状回復の費用を日本が肩代わりするというものです。「運命の人」の中に以下のような記述があります。

「戦時中、日本で唯一地上戦が行われ、4人に1人が戦死したといわれている。沖縄は戦後も犠牲を強いられていた。サンフランシスコ条約で日本本土と切り離され、米軍統治下におかれると米ソ冷戦を背景に米軍が沖縄の基地化を進めるため、1953年土地収用例を交付して多くの住民の土地を問答無用で取り上げた。」「日本全体のうち0.6%にすぎない面積に、米軍基地の75%が集中している異常な状態が祖国復帰後13年経っているが、今なお続いている。」

沖縄は戦中、戦後そして今もなお本土に見捨てられているのです。本土と沖縄両者が納得して解決するまで戦後は終わってはいないというのが山崎氏の考えなのです。

さて6月23日、2022年度沖縄全戦没者追悼式が平和祈念公園で開催されました。今年は沖縄本国返還50周年記念にあたります。日本で唯一、地上戦が行われた沖縄の悲惨さは、私も何度か訪れたひめゆり平和祈念資料館を見学すると生々しく実感します。沖縄県立第一高等女学校、沖縄県師範学校女子部の生徒で組織された学徒看護隊(ひめゆり学徒隊)は1945年3月下旬、沖縄戦が開始されると看護隊は各部隊に配属投入され、5月下旬以降、戦局悪化に伴う戦場で、死線を彷徨いながらも傷病兵の看護にあたったのです。320人のうち170人は戦死しました。県南部の糸満市に彼女たちが看護にあたった洞穴があり、その入り口には“ひめゆりの塔”が建立され、今でも多くの参拝者が集まっています。

 

今回の式典で小学校2年生の徳元穂菜さんが平和の詩を朗読しました。一部抜粋させて頂きます。

せんそうがこわいからへいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように なくさないように わすれないように
こわいをしって へいわがわかった

 

Service honors war victims on Okinawa
Kishida attends ceremony marking brutal battle fought 77 years ago
The Yomiuri Shimbun
(The Japan News)

 

この島の大切な宝のような多くの命が失われた。決して風化させてはならないのです。