先日、日本赤軍の重心房子元最高幹部が懲役20年の刑期を満了し出所しました。日本赤軍はイスラエル・テルアビブの国際空港で銃を乱射し、約100人を死傷させた事件など、世界を震撼させる数々の国際テロ事件を起しています。
その中でも私達日本人にとって深く記憶に残っているのは、1970年に起こったよど号ハイジャック事件でした。よく晴れた朝の7時頃、富士山の真上を飛んでいた日本航空のよど号が赤軍派にハイジャックされたのです。日本刀を抜いた若者が座席から立ち上がり、「我々日本赤軍はこの飛行機をハイジャックし、北朝鮮の平壌を目指して直行することを命ずる」と叫んだのです。乗客・乗務員は全員麻縄で手を縛られました。
その乗客の中に居合わせたのが、元聖路加国際病院理事長・名誉院長の日野原重明先生でした。先生は語っておられました。赤軍の若者達は“機内に本をいくつか持ち込んでいるから、読みたい者は手を挙げよ”先生だけが手を挙げて、「カラマーゾフの兄弟」を貸して下さいと言われました。ロシアの文豪ドフトエフスキーの代表作です。小説家村上春樹氏は“世の中には二種類の人間がいる。カラマーゾフの兄弟を読破したことのある人と、読破したことのない人だ” 私は後者で、長編すぎて途中数十頁読んで諦めてしまった記憶があります。
さて、日野原先生が本を開くと冒頭に“聖書”の教えの一節が出ていました。“一粒の麦 もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし”それを読んで先生は思われました。私もここで一粒の麦となって死んでしまうかもしれない、けれども私のこれからの振る舞いが後に続く人たちに何かの結果を及ぼすかもしれない。そういう気持ちを持って心を静かにし、皆のために出来るだけのことをやろうと考えたといいます。
乗客全員事件から4日目に無事解放され、その時先生は思われました。“ああ、これからの私の人生は与えられたものだ” 先生が58歳の時でした。それ以降の先生の人生は、皆さんもご存知のように輝かしいものでした。
89歳の時に「新老人の会」を立ち上げ、75歳以上の新しい生き方を提唱されました。最後にお話は“ああいう事件に遭遇したことが、私に本当に生きる意味というものを教えてくれたんです”と結ばれています。(生き方の教科書 致知出版社)
日野原先生は105歳で亡くなる。直前まで現役医師として活躍されました。100歳を超えてもスケジュールは2.3年先までいっぱいという多忙な日々を送っておられました。日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜を止め、睡眠を5時間に増やしたといいます。まさに私の理想とする生涯現役です。
心臓外科医として歩んできた私でしたが、今から30年前、患者さんに終末期を医師はどうお手伝いすべきかということに関心を持ち始めました。というのは、癌末期の患者さんの苦しまれるご様子があまりに痛ましかったからです。当時は癌は死の病、告知はタブーだったこともあります。癌の患者さんは真実を告げられず、“なんでどんどん痩せ、苦しくなっていくんだ”しまいには家族関係も悪化。医師に対して不信感が芽生え、その中で亡くなっていく、そんな方が多かった。そんな時立ち上がったのも日野原先生でした。
1993年に神奈川県西部の富士山を望む緑豊かな高台に位置する、日本で最初の独立型ホスピス(緩和ケア病棟)を設立されたのです。日野原記念ピースハウス病院です。
私は見学に行かせて頂き、先生にお目にかからせて頂きました。80近い先生のなんと活力に満ちたご様子、そして穏やかで優しいお姿に感銘したのを覚えています。
My ideal is to work till the last moment as a lifelong active doctor. I wonder if it might be my impossible dream.
いまや私の理想は100歳まで現役でばりばり働いている医者です。
君と好きな人が百年続きますように。