紅葉の季節です。先日の円教寺でも紅葉祭りが開催されていました。

再び瀬戸内寂聴さんのエッセイ集「花のいのち」からです。美しい自然の営みについて語られています。秋の紅葉も人に見せようと紅葉するのではない。無心に約束通りに時が来れば紅葉するだけです。それを美しいと眺め訪れるのは人間です、と。紅葉は無心です。

それならばこれは人間の勝手?再び百人一首からです。
京都の嵐山にある小倉山、宇多法皇が訪れて“醍醐天皇のお出ましがあってもよさそうな所だ。(それほど紅葉が素晴らしい)”とおっしゃったので、前原忠平が“法皇がこのようにおっしゃいましたと醍醐天皇に申し上げましょう。”と宇多法皇に申し上げて詠んだ歌です。

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

小倉山の峰の紅葉よ、もしお前に心があるならばもう一度天皇のお出ましがあるまで散らずに待ってほしいのだ。

人間は誰でも生まれた時は無心で清らかです。人は成長するにつれて欲望を生じ、心を濁らせる。人間の欲望を仏教では煩悩と呼ぶ、人間の煩悩は除夜の鐘と同じ108あるとされます。108とは無限の意味です。江戸時代末の僧侶で、子供たちともまりつきやかくれんぼをして遊び、多くの逸話を残した良寛さんの詩に“花は無心にして蝶を招き 蝶は無心にして花を尋ぬ”というものがあります。花はそれぞれ美しく、その花だけが持ついい香りを放っています。けれども花は美しさや香りで蝶を招き寄せようという魂胆で、咲いているのではありません。ただ自然の計らいでそこに花が開けば蝶が飛んでくるし、蝶が何気なく飛んでくれば花はまた開いて蝶を迎えます。花も蝶も無心なのです。

蝶が花の蜜を欲しがっても花はそれを拒まず、蝶が満足するまで提供します。花と蝶の関係ってそういうものなのです。

Natural processes are going on, not related to bonnou, that is polluting thoughts such as greed, hatred and delusion, which result in suffering.

森進一さんの歌で「花と蝶」があります。これは少し人間の煩悩が入っているかもしれません。

花が女か 男が蝶か
蝶のくちづけ うけながら
花が散るとき 蝶が死ぬ
そんな恋する 女になりたい

花が咲くとき 蝶が飛ぶ
蝶が死ぬとき 花が散る
春を競って あでやかに
どちらも どちらも 命を賭ける