文藝春秋の記事からです。2021年11月3日、文化勲章の親授式が行われ、その時皇居にはミスタープロ野球長嶋茂雄氏の顔がありました。
戦後日本の復興の中で、スポーツ振興の土台を支えてきたのは紛れもなくプロ野球であった。それを国民的娯楽としての地位を確立させたのが長嶋氏だったのです。今回の文化勲章受賞はプロ野球を文化的な側面から評価されるようになった証でもあるのでしょう。
1959年6月25日の天覧ホーマーは劇的すぎるエポックメーキングな出来事だったのです。“あの光は何か?”天覧試合の実現は、昭和天皇のこのひと言がきっかけだったと言います。夜になると決まって水道橋方面の空が明るくなることを陛下が侍従に尋ねられた。「いま国民に人気のあるプロ野球のナイトゲームの灯りです。」「夜でも野球はできるのか。」陛下が野球に興味を示していることから、関係者が天覧試合の開催を申し入れた。そして1959年6月25日に後楽園球場で行われる伝統の巨人対阪神戦で史上初の天覧試合が挙行されることになったのです。決定後は日本中が大騒ぎ、そして長嶋氏も眠れぬ夜を過ごした1人でした。この年の長嶋氏は開幕から絶好調、5月にはあまりの好調さに相手チームの敬遠攻めにあい、あまりに露骨な敬遠策に4球目が投げられる前に打席で後ろを向いてヘルメットとバットを置き始めるパフォーマンスで抗議する一幕もあったのです。それからリズムを崩された長嶋氏は大スランプのまま、天覧試合を迎えることになるのです。
でもそこでみせたのが“燃える男”の真髄です。私は外科医の頃、手術の当日はいつもより早く起床し、患者さんの造影写真を見た後に、手術の最初から最後までの手順を瞑想の中で浮かべていく、いわゆるイメージトレーニングをしていました。
でも長嶋氏のそれは半端ではありませんでした。試合当日、起床した長嶋氏は最寄りの駅でありったけのスポーツ紙を買い込んできた。そして自室に戻り、全紙の一面を広げると、そこに自分で赤や青のマジックを使って次々と見出しを書き込み始めたのです。“長嶋 天覧試合でサヨナラ打”“長嶋逆転満塁本塁打”大きな文字でこう見出しを書き込むと、次は自分の手で監督の水原の談話も作った。“長嶋の一発につきる。さすがゴールデンルーキー、歴史に残る一発だ”長嶋流の常人離れのイメージトレーニングですよね。
そして天覧試合でまさにそれを実現させる。それも小説よりも奇なる形で。
その試合は千両役者の勢揃いでした。藤田元司、小山正明両エースの先発でした。長嶋の同点ホームラン、阪神主砲の藤本勝巳のホームラン、そして投手から打者に転向したばかりの王貞治が同点2ランホームランを。これがその後106回を数えたONアベックホーマーの祈念すべき1回目となったのです。
そしてむかえた4対4の同点の場面、9回裏巨人の攻撃、投手は村山、打者長嶋が打席に向かう。この頃両陛下が観戦するロイヤルボックス周辺はにわかに慌ただしくなっていた。警備上の問題もあり、両陛下の退場時間は試合の展開にかかわらず9時15分と決められていた。すでにセンターバックスクリーンの大時計は9時を回っている。村山投手の投じた5球目“来た球を無心で打った”打球は左翼スタンド上空に吸い込まれていく。4万5千人の大歓声とともに。両陛下退出まであと5分でした。
長嶋氏の談話です。“3塁を回ってホームに向かう時、貴賓室を見上げると陛下は拍手をしながら身を乗り出しておられた。皇后様も半分立ち上がった姿が見えました。野球をやっていてよかったとその瞬間に思ったことを覚えています。”
Mr.Nagashima was the most shiny player in the very game watched by Showa Emperor and Empress, since when he has been called Mr.Baseball.
私の小学生時代は東京でした。少年野球に所属していましたが、敵も味方も9人全員が背番号3をつけてプレーしていた光景、今だったらSNSで大ヒットだったでしょう。まさに嵐を呼ぶ男です。