まず余談です。今回の総選挙、国民の関心はいかに?

私の住む最寄りの駅で現職の衆議院議員が演説されていました。ところが“道行く人は誰ひとりも見向きもしない”(三善英史の雨)

この度は知の巨人の方々に登場して頂きます。

まず哲学者の梅原猛先生の著書「戦争と仏教」(2005年発刊)です。その中に小エッセイ、演歌はなぜ廃らないのか?という項があります。日本に深く根付く仏教、その中核教義の一つの無常、すなわち生滅変化して移り変わり、しばらくも同じ状態にとどまらないこと、演歌がこの日本人の琴線に触れるというのです。演歌が数多く取り上げる“別離”“破恋”“怨念”が無常感と親和性があるからだというのが梅原先生の説です。

さて昭和45年のヒット曲、石田ゆりさんの「悲しみのアリア」からです。          

どのような悲しみなの?どのような淋しさなの?細胞生物学者でもあり、歌人でもある永田和弘先生ならこのように問われるのではないでしょうか?先生の著書「知の体力」の中で精神科医でもあり、歌人でもある斎藤茂吉さんの短歌を取り上げられています。母の死を詠んだ一連です。

死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天に聞(きこ)ゆる
のど赤き玄(つば)鳥(くらめ)ふたつ屋(は)梁(り)にゐて足乳(たらち)根(ね)の母は死にたまふなり

死に近き母に添寝をして、普段は気にもならない蛙の声が天にも届くかと思われるほどに聞こえてくる。そしてふと見上げると喉の赤いつばめが二羽梁に止まっていた。ここには「悲しい」とか「寂しい」とかそのような気持ちの心情を表す言葉は何一つ使われていない。短歌のかなり高度な感情の伝達の技を先生は示されました。だから演歌の歌詞は奥ゆかしさに欠けると私にも思えます。

でもなぜ私たちの心に届く?おそらく歌手のサビの部分でのこぶしといわれる唱法によるのかもしれません。

さて今の若者、演歌には全く興味を示さない。一つの証として50回連続出場の五木ひろしさんが今年の紅白歌合戦を辞退されたことがあると思います。

解剖学者の養老孟司先生の「バカの壁」です。養老先生も鴨長明の方丈記を取り上げ、万物流転を説いておられます。“行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。”朝に死ぬ人があるかと思うと、夕方に生まれる人があるという人の世の習わしは、全く水の泡に似ているということである。

今の世の中、情報で溢れている。その情報は実は常に変わっているようにみえて、ひとコマひとコマは止まっている。でも若者たちは刻一刻と変化する情報を万物流転と勘違いして自分だけは変わらないと思っている。だから自分はいつまでも同じ自分、自分たちも流転していると思わないと、演歌は理解できないのかも。

そして今でも行く川の流れは絶えずして長良川は流れます。鮎の塩焼きを肴にゆっくり秋の夜長を過ごしたいですね。

All things are in a state of flux: Everything is constantly changing.