昭和62年春ごろ、教授に言われました。「“僕の友達のシドニーからフェローとして、誰かうちの医局から来てくれないか”と連絡があった。君に行ってもらおうかと思っているんだけど…。日本もこれから臨床で、心臓移植が始まるのでその研究をしてきてほしい。」夢にまで見た米国留学、私の精神状態は高ぶり続けました。出発前の医局の送迎会では、村田英雄さんの王将を文字って“明日はイリノイ(東京)に出ていくからは なにがなんでも勝たねばならぬ”と歌ったりして。
私に課せられたテーマは移植心の保存方法でした。でも、現実はそんなに甘いものではありません。7月からシカゴに在住して、でも全く結果が出ませんでした。10月頃、シドニー・レヴィツキ―先生が“研究は進んでいるか?”優しいながらもじわじわとくるプレッシャー。アメリカは、ドイツとは違ってすぐに結果を求めてきます。
そして、秋が深まるにつれ、ミシガン湖から北風が吹いてくる。12月になると、体感温度はマイナス10度~20度。外に出るとまつ毛が直ちに凍る。ああ、このままなんの成果も出ず、帰国することになるのかと思っていたところ、アメリカでも日本の歌番組が放送されていて、杉良太郎さんが歌っていました。“いいさ それでも生きてさえいれば いつかしあわせにめぐりあえる”と。そうだ、今生きている。そこからが戦いでした。極寒に勝とうと冷水を浴び、体をこすって外に出る、すると以外に寒くない。朝7時から夜8時まで病棟で臨床実習、その後夜中まで研究棟で実験と、修業僧のような毎日でした。
心臓外科研修医のプログラムにレジデントという制度があります。文字通り、1日24時間365日病院に住みついて研修するのです。いつ寝ているの?彼らの壮絶なまでの生活を目の当たりにして、自分なんかまだまだと自分を励ましながら過ごしていました。
いい経験もさせて頂きました。ジョージア州デンバーでドナー発生。小型ジェット機で心臓を摘出に。その後は3時間以内に移植を完了しないといけないので(移植心の保存)、シカゴの空港からはヘリコプターでシカゴの街を横断し、病院の屋上へ。映画さながらの光景でした。そして、春が近づくにつれ状況は好転。活性酸素を除去する酵素(SOD等)が、心臓の保存に役立つというデータが出始めました。
ある日、レヴィツキ―先生がハーバードに栄転することになった。“君の仕事には満足している。一緒に来ないか?”当然一つ返事でOKでした。
そしてシカゴでの経験が、その後シカゴで活性酸素を研究されていた丹羽耕三先生との出会いに繋がっていったのです。
シカゴでは、夜中も研究を行っていたことが度々でした。あと3時間で教授の回診(AM7:00)だなんて思いながら。そして口ずさんでいた歌がこれです。シカゴというロックバンドがありました。そのヒット曲で“長い夜”という曲です。
Waiting for the break of day
Searching for something to say (25 or 6 to 4 Chicago)