以下、知の巨人 立花隆氏の著書「知の旅は終わらない」を参考に書かせて頂きます。

立花さんは脳死についても深い考察をお持ちで研究されていました。脳死に一番関わっている問題は、私の専門分野では心臓移植なのです。

日本で最初に心臓移植が行われたのは1968年、執刀したのは札幌医大の和田寿郎教授でした。この心臓移植という治療法は、それを可能にする唯一の条件は、心臓は生きているがその人は死んでいるという脳死者の存在ということになります。すなわち、“生きた心臓をもつ死体”という摩訶不思議な存在があって初めて心臓移植が可能になるのです。

和田教授の心臓移植のプロセスにおいては、多くの疑惑がかけられ、日本での心臓移植は一時期停滞します。その間、欧米諸国では免疫抑制剤の進化等で難治性の心臓病で苦しむ人たちに対して、心臓移植は治療法として確立しました。私たち心臓外科医としては、やはり心臓移植を推進していきたい、その動きは次第に活発化し、1985年には厚生省の“脳死に関する研究班”が全国調査の結果を発表したり、脳死判定基準なるものを発表しました。

丁度その頃でした。教授に呼ばれ、“日本でも早晩心臓移植が再開される、米国で学んで来てくれたまえ”そして大いなる期待と不安を胸にイリノイ州のシカゴに飛び立ったのです。

私が経験した最初の移植は、ドナー発生との知らせを受け、私たち移植チームはシカゴから

小型機で2時間のジョージア州デンバーの病院に心臓の摘出に行きました。ドナーは交通事故による脳死でした。米国では当たり前の心臓移植、でも私は強烈な違和感を覚えたのです。まずドナーの出現の第一報にラッキーと反応した同僚外科医、そして心臓摘出後にそこには一人の死があった。

さて和田心臓移植に話を戻します。まず、ドナーは海岸で水泳中に溺れた男性、その後残された医療の記録が曖昧のまま脳死と診断され心臓を取り出された。まだ生きているうちに摘出されたという疑惑です。そして心臓移植を受けた男性は、僧帽弁膜症で僧帽弁を人工弁に替えれば社会復帰できるくらいの病気で、そもそも移植手術を受けなければならないほどではなかったとの疑惑です。そして心臓移植を受けた男性も術後83日後に免疫用製剤の副作用で亡くなりました。すなわち二人が亡くなった、札幌地検は二重の殺人罪で調査します。結果証拠不十分で不起訴処分になりました。だから脳死の診断には厳格な基準が求められるのです。

今でも多くの方々が難治性心臓病で苦しまれている。そして複雑な気持ちで心臓移植を待たれている。なぜならば、一人の死を待たなければならないからです。

Seriously ill patients, whose hearts have deteriorated so badly that nothing but heart transplant could save their lives, wait desperately for surgery with complicated feelings.   

“いのち短く 待つ日は永く”という歌詞、映画にもなった「絶唱」山口百恵さんと三浦友和さんのダブル主演でした。舟木一夫さんでヒットした歌です。